後輩
先輩
この存現文は、『漢文の基本的な形』の記事で話題に上げながらも、散々引つ張つたところです。
なので、今度こそ專用記事を建てて、研究していきます。
存現文とは「存在文」と「現象文」を合はせた言葉
「存現文」といふ言葉を知らなくても、「存在文」と「現象文」ならピンとくるはずです。
先輩
【復習】「ヲニト あつたら返る」
- ~を。
- ~に。
- ~と。
- ~へ。
漢文では日本語の助詞「を・に・と・へ」が出てくる文では、その部分の語順が逆になりやすいといふ大前提があります。
後輩
先輩
この話は『漢文の基本的な形』シリーズで何度か書いてきました。
以下に紹介する存現文では、この前提が通用しないわけです。
存在文
存在に關する文 動詞「有・無」がある文
〔漢〕國有大難。
〔日〕國に大難がある。
〔漢〕了無喜色。
〔日〕(彼に)まつたく喜んだ樣子がない。
〔漢〕有死,無二。
〔日〕(私に)死ぬことはあつても、不忠の心を抱くことはない
いくつか例を擧げましたが、すべて「ヲ・ニ・ト」の順番が普通と逆になつてゐるのがわかります。
後輩
たしかに書くときは不安ですよね。
しかし發想を轉換することで、間違へる可能性を減らすことができます。
以下のやうに解釋してみてはどうでせう?
- ×:A有B AにBがある
- ×:A無B AにBがない
↓ ↓ ↓
- ○:A有B AがBを有してゐる
- ○:A無B AがBを有してゐない
後輩
先輩
「有・無」の後ろの賓語は長くてもよい
ちなみに、ここにおける「有・無」の賓語は、べつに1つの單語でなくても大丈夫です。
〔漢〕有朋自遠方來。
〔日〕友が遠方から來た(といふ事實がある)
〔漢〕且萬無母子倶往理。
〔日〕また決して母と子が共に(夫の赴任先に)行く道理はない。
このやうに、1つの文や句をまとめて「有・無」でくくることも可能です。
「有・無」の否定形について
〔漢〕不有君子,其能國乎?
〔日〕賢者が居らずして、どうして國を治めることができようか?
「有」を否定する。つまり「ない」ことを書く場合は「無・不有」になります。
上の文は、以下のやうに書き替へることができます。
- 「不有君子」 「有」に否定の副詞「不」を付ける
- 「無君子」 「有」の反對の意味の動詞「無」を付ける
つまり「有」の否定は2パターンあるわけです。
「不有」か「沒有」か
もし現代中國語を知つてゐる人が居れば、「沒有」といふ言ひ囘しが浮かんだかもしれません。
「沒有」は、現代中國語の定番表現です。
筆者も「本當に『不有』と書いて良いのだらうか? 『沒有』では駄目なのだらうか?」と惱んだことがあります。
今の筆者の考へとしては、漢文(文言文)に「不有」の用例がある以上、「不有」で良いと思ひます。もしくは「無」。
先輩
「有・無」を使ふ存在文と、「在・不在」を使ふ普通文
〔漢〕握有兵權。
〔日〕手中に軍事權がある。
この文は下のやうに書き替へることができます。
〔漢〕兵權在握。
〔日〕軍事權は手中にある。
後輩
つまり、「有・無」がある文は存在文で、「在・不在」の文は普通文といふことです。
この「有・無」と「在・不在」の關係は次の通り。
- 存在文:動詞は「有・無」を使ふ
- 普通文:動詞は「在・不在」を使ふ
「有」と對應するのは「在」、「無」と對應するのは「不在」です。
存在文と普通文の使ひ分け
どちらの文を使ふかの決め手は「どの單語を強調したいか」です。
- 「握有兵權」は、「私が掌握してゐるぞ」といふ部分。
- 「兵權在握」は、「軍事權について」といふ部分。
存在や所有について書く場合、そこのところを意識しませう。
モノの多い少ないに關する文 「多・少」などがある文 多少文
〔漢〕天下多事。
〔日〕世の中には異變が多い。
〔漢〕自經喪亂少睡眠。
〔日〕騷亂を經てから(私には)睡眠することが少ない。
「多・少」なども「有・無」と同じ發想になり、存在文的になります。
このタイプの文に名前が付けられてゐないので、ここでは便宜上「多少文」と名付けることにします。
- 有:有してゐる
- 無:有してゐない
- 多:多めに有してゐる
- 少:少なめに有してゐる
- 稀:まれに有してゐる
この多少文も、上のやうに解釋すれば、まつたく混亂せずに書くことが可能でせう。
後輩
先輩
「多・少」の他に「寡・鮮・省・稀」なども、多少文になります。
「多・少」の文なのに、語順が逆にならない場合の形
〔漢〕何以正善人少,惡人多?
〔日〕どうしていつも善人が少なく、惡人が多いのか?
後輩
つまり、上の文は多少文ではない、普通文といふことです。
多少文になる場合と、普通文になる場合
2つの觀點から、それぞれの場合を分けることができます。
- 多少文:「不特定の何か」についての文で、「多・少」は存在動詞になる。
- 普通文:「特定のもの」についての文で、「多・少」は形容詞になる。
- 多少文:存在文の「AがBを有してゐる」の語感を強調したい場合
- 普通文:形容詞として「多い・少ない」をサラッと言ひたい場合
「不特定の何か」か「特定のそれ」か
〔漢〕天下多事。
〔日〕世の中には異變が多い。
この文は多少文です。
ここでの「事」は異變全般を言ふもので、べつに「いつ」「どこで」「何が」「どんな風に」といふ條件はありません。
〔漢〕是何楚人之多也!
〔日〕これはなんと楚の人の多いことよ!
この文が書かれたシチュエーションは、「楚の王を名乘つてゐる項羽が、戰ひに負けて包圍されました。そして包圍してゐる敵軍から楚の民謠が聞こえてきて、『兵士たちが私を見捨てて寢返つたのか?』と勘違ひするシーンです」
ここでの「多い」といふのは、ただ不特定の人ではなく、「楚の人・楚人」です。
更に言へば、「ただの楚人」でもなく、「自分を裏切つて敵對してゐる楚人」、まさに「特定のもの」ですね。
なので普通文になります。
強調したい部分の違ひ
〔漢〕頃獄多寃人。
〔日〕ちかごろ牢獄に無實の罪人が多い。
〔漢〕何以正善人少,惡人多?
〔日〕どうしていつも善人が少なく、惡人が多いのか?
上の文「頃獄多寃人」、作者がこの文で強調したいのは、どちらかと言ふと「獄」の方ではないでせうか。
「寃罪はいつの時代、どこの國でもありがちな事だけど、それにしても最近の我が國の牢獄の状況は酷いよね」といふ意圖が感じられます。
下の文「善人少,惡人多?」話題に上がつてゐるのは世間一般における善人と惡人の比率についてで、べつに「いつ、どこで」といふ指定はありません。
強ひて言へば「世の中・天下」でせうけど、この分脈において、筆者はあまり重要ではないと判斷したのでせう。
多少文か、普通文か
後輩
先輩
- この分脈での「楚人」は不特定だな 「多楚人」
- この分脈での「楚人」は特定の集團として扱はう 「楚人多」
- 「楚人が居る」のはいいとして、「たくさん取り圍まれてゐる」ことの方が重要だ。「此多楚人」
- 「楚人」を強調したいから「楚人多」にしよう 「楚人多」
このやうに、作者の匙加減でどんな形にでもできるのではないでせうか。
逆に言へば、語順をどうするか、多小文にするか普通文にするかによつて、作者の意圖を正確に傳へられるのでせう。
現象文
自然現象に關する文 「雨や雪が降る」など
〔漢〕大雨雪三日。
〔日〕大いに雪が降ること三日。
〔漢〕大雨雹。
〔日〕大いに雹が降つた。
この現象文は現代語でも「下雨」と表現されます。
どうして現象文がこの形になるのか。
日本人と中國人が道端で雨に遭遇したとき、
- 日本人「あっ、雨の水滴が落ちてきたぞ」
- 中國人「あっ、雨といふ現象がこの空間に存在してゐるぞ」
おそらく兩者は自然現象に對して、それぞれかう認識してゐるんだと思ひます。
その認識につられて、現象文も存在文に似た形になつたのでせう。
現象文になり得る動詞は、まだたくさんあると思ひますが、〈『漢辭海』の「漢文讀解の基礎・三、文を構成する基本構造」では、「『開花』『降雨』『斷水』などの熟語もこの現象文に由來する」とあります。〉まだ多くは發見できてゐません。
現象文が出てくる頻度つて少ないんですよね。
「雨を降らせる」の文
後輩
先輩
〔漢〕天不悦,不降雨。
〔日〕天が喜ばなければ、雨を降らさない。
現象に關する文なのに、語順が逆にならない場合の形
〔漢〕雨下降。
〔日〕雨が降ること激しい。
後輩
つまり、上の文は現象文ではない、普通文といふことです。
「不特定の何か」か「特定のそれ」か
現象文と普通文の違ひは以下のとほり。
- 現象文:不特定の自然現象
- 普通文:特定の自然現象
上の方で出た「大雨雪」の文。
これは「大いに雪が降つた」といふ事實を述べたものであり、この文の筆者にとつてはその雪の雪質とか、降つた地域とか、季節外れかどうかなど、わりとどうでも良いことです。
對して「雨下降」の文。前の文章を合はせて載せてみますと
〔漢〕管子曰:「春三月…(略)。
當夏三月…(略)。
當秋三月,山川百泉踊,雨下降,山水出,海路距,雨露屬,天地湊汐…。
當冬三月…(略)。」
〔日〕管子は言つた「春の三ヵ月は…(略)。
夏の三ヵ月においては…(略)。
秋の三ヵ月においては、山川のいろんな泉が湧きおこり、雨が降ること激しく、山の水は流れ出し、海路は阻害され、雨露は集まり、各地の港は大潮で、…。
冬の三ヵ月においては…(略)。」
春夏秋冬の季節の特徴についていろいろ説明してゐる文です。
ここで管子が言つた「雨」とは、季節を通して降る雨ではなく、特に秋の季節に降る激しい雨、秋雨のことを指してゐるのでせう。
不特定の雨ではなく、秋に降る特定の雨について言及してゐるので、「雨下降」と書かれたのだと思ひます。
現象文か、普通文か
後輩
先輩
「春や秋に季節外れの雪が降つた」といふ現象でも
- 北海道の人「まあ、よくあるよね…『降雪』と」
- 九州の人「ここらでは冬でも降らないのに、季節外れの雪だ! 『雪降』!」
このやうに筆者の主觀的な氣持ちで書き方が變はつてくることは、十分ありえることではないでせうか。
多少文のときと同じと考へて大丈夫だと思ひます。
まとめ
後輩
先輩
ともあれ、これで存在や所有、モノの多少や自然現象に關する文が書けるはずです。
よい漢文を書いていきませう。