後輩
先輩
そんなわけで今囘は助詞について書いていきます。字面だけは助詞とよく似てゐる品詞、助動詞については以前書いてゐます。
漢文の付加的な形 助動詞
助詞とは
文頭から文中あるいは文末のどこかに付いて、補助的な働きをする語です。
「補助的な」といふことで、助詞は無くても文として成立することがあります。
- 「これはリンゴ」→「是蘋果」
- 「これはリンゴです」→「是蘋果也」
上は斷定の語氣助詞である「也」を使つたり使はなかつたりした文です。このやうに、細かいニュアンスの違ひはあれど、いちわう文章としては破綻してゐないことが分かるでせう。
先輩
あくまで「無くても大丈夫なことが多い」といふこと。助詞を全く使はないで文章を書くのはオススメしないよ。
たとへば、疑問助詞が無いと疑問文なのか普通文なのかが判らないし、一部の構造助詞を省いてしまふと、とても讀みづらい文章になつてしまふこともあるわ。
構造助詞と語氣助詞
『漢辭海』では、助詞は構造助詞と語氣助詞とに分けられてゐます。
- 構造助詞:その文が文法的にどういふ組み立てになつてゐるかを示す。
- 語氣助詞:疑問や詠嘆など、書き手の感情を表す。
構造助詞、特に「者・所」の内容がやたら多くなつてしまつたので、記事を分けることにしました。語氣助詞は次囘書きます。
3種類の構造助詞「之・者・所」
「之」
定語による修飾關係の明示
定語とは、連體修飾語とも言ひ、名詞もしくは名詞句にかかつてこれを修飾するものです。以前の記事に詳しい内容があります。
漢文の付加的な形 定語と状語などの修飾語〔漢〕天地者,生之本也;先祖者,類之本也;君師者,治之本也。
〔日〕天地は、生命の根元である。先祖は、類縁の根元である。君子は、統治の根元である。
「生之本」「類之本」「治之本」は最も解りやすいところでせう。
「生」は生命、「類」は類縁、「治」は統治で、いづれも名詞。「本」は根元を表す名詞。以下のやうに圖式にすることができます。
[名詞] + [之] + [名詞]
そしてこれら「之」を除いてみると
- 生之本 → 生本
- 類之本 → 類本
- 治之本 → 治本
となり、[名詞] + [名詞]の文になりました。いづれも文としては破綻してゐません。
後輩
さて、一見あつても無くても大丈夫さうな「之」ですが、氣をつけたいところがあります。
後輩
先輩
このやうに、[謂語(動詞)] + [賓語]の形として讀まれてしまふ可能性があるんですね。
かと言つて全ての定語に「之」を付けても、煩雜になつて見づらくなることでせう。
なので「ここは要らないな」「ここは入れておかないと勘違ひされさうだな」と、讀み手のことを考へつつ、書いたり書かなかつたりすると良いでせう。
先輩
一文を名詞句にして、主語や謂語、賓語になる
〔漢〕後之視今,亦猶今之視昔。
〔日〕後世(の人)が今(の我々)を視ることは、またまさに今(の我々)が昔(の人)を視ることと同じである。
この文を簡略化すると
- A,猶B。(Aは、まさにBと同じである。)
ごく普通の[主語] + [謂語] + [賓語]の形であることが解ります。
では、Aの部分。「後之視今」を見てみませう。
- [後(主語:名詞)] + [之] + [視(謂語:動詞)] + [今(賓語:名詞)]
ありふれた[主語] + [謂語] + [賓語]の文で、違ひは「之」があるだけ。賓語は書かれない場合もあります。
「之」の有無による違ひは以下のとほり。
後視今 | 後世が今を視る |
後之視今 | 後世が今を視ること |
このやうに「之」を書き入れることで、元々ひとつの文だつたものに、「~が~すること」といふ意味を與へて、ひとつの名詞句にすることができるのです。
この構文は、文を入れ子構造にして複雜な内容を書くのに最適です。
〔漢〕舜之踐帝位,載天子旗,往朝父瞽叟,夔夔唯謹,如子道。
〔日〕舜が帝位を繼いだ時といつたら、天子の旗を車に立てて、父親の瞽叟に會ひに行つて、愼み深く和やかに振舞つたこと。まさに子としての道を體現するやうだつた。
このやうに「A之B」が文頭に來て「AがBした時は」「AがBした場合は」などと時間や條件を提示することがあります。
わざわざ「舜之踐帝位時」「舜踐帝位之時」などと書く必要は無いわけです。
倒置であることを明示する
〔漢〕寡君其罪之恐。
〔日〕わが主君はその罪を恐れた。
漢文法の基本形は、[主語] + [謂語] + [賓語]であるといふのは、以前の記事に書いたとほりです。
漢文の基本的な形1 主語+謂語(述語)+賓語(目的語)問題の個所は「其罪之恐」。この文は倒置文で、「其罪」が賓語になつてゐます。
- 一般的な語順:恐其罪
- この文の語順:其罪之恐
倒置は、日本語でもよく見られる表現で、漢文にも例外ではありません。
しかし、漢文は漢字を列べただけの言語なので、ただ普通に語句を入れ替へると、讀者を混亂させてしまひます。
だから、「之」を目印として間に插入する必要があつたんですね。
「之」の他、「是」にも同樣の用法があります。もちろんこの「是」も助詞です。
〔漢〕人域是域,士君子也。
〔日〕人の居るべき位置にゐる、(それが)士や君子である。
前の「域」は名詞で、「(人が)居るべきところの位置」。後の「域」は動詞で「居る・位置する」の意。ややこしいので「人域是居」とでも書き替へておきませう。
そしてこの場合における助詞「是」は「之」と同じなので「人域是居」は「人域之居」に同じです。
なほ、『漢辭海』には「また、ふつう限定を示す「唯・惟(たダ)」と呼應して用ゐることが多い」と書かれてゐます。「之」にはこのやうな説明はありませんでした。「是」を倒置の助詞として用ゐるときは意識してみてください。
「之爲」の形は、動詞を強調か
〔漢〕怠惰之爲安,若者必危。
〔日〕怠惰を安らぎと思ふこととする、このやうな者は必ず危ふくなる。
『漢辭海』には「ときに、「之」の後に助詞「爲」が添へられることがある」と書かれてゐます。つまり「怠惰之爲安」は「怠惰之安」と同じやうです。
同じく『漢辭海』より、續けて「本來、この「爲」には意味がないのだが」と書いてありますが、あへて書き加へる以上、書き手は少なくとも何らかの意圖を込めてあるはずです。
個人的な考へですが、『漢辭海』では助詞とされてゐる「爲」を、動詞的にとらへて文を多少強調する意圖があつたのだと思ひます。
ややこしいので、倒置を解除した上で比べてみます。
- 爲安怠惰(怠惰を安らぎと思ふこととする)
- 安怠惰(怠惰を安らぎと思ふ)
このやうに、わづかな文意の違ひがあるのかもしれません。
このタイプの倒置文の使用頻度
文を倒置させたやうな文は、よく見かけます。特に以下のやうな、賓語を前に出して入れ子の文にする形は頻出です。
〔漢〕舜妻堯二女與琴,象取之;牛羊倉廩,予父母。
〔日〕舜の妻である堯の娘二人と琴については、象(人名)がそれを貰ふ。牛羊と食糧庫は、父母に差し上げよう。
「舜妻堯二女與琴」と「牛羊倉廩」は、ひとかたまりの主語とみなせるので、簡略化すると以下のとほり。
A,象取之;B,予父母。
前の文では、「A,象取之」を「象取A」に書き替へることができます。つまりこれは倒置の關係で、「舜妻堯二女與琴」が「之」に對應してゐます。
先輩
後ろの文も構成は同じで、「B,予父母」が「予B父母」に倒置できます。雙賓文の形ですね。
雙賓文の書き方、プラス介詞。「AにBを與へる」「AにBを問ふ」「AにBさせる」「AをBとする」なほ、「予父母」では「之」が省略されてゐます。もし書き加へるなら「B,予之父母」「B,予諸父母」になるでせう。
一方、「怠惰之爲安」のやうな文は(私が確認できてゐる限りでは)あまり見かけません。
筆者の推測ですが、前述の「舜妻堯二女與琴,象取之」の文や、介詞「以」を用ゐた文の方が、より文の構成が解りやすいからだと思ひます。
「者」
- いろいろな品詞や文を名詞化する
- 判斷文の主語を明示する
- 假定條件における原因・條件を提示する
3つの用法を擧げてゐますが、①が助詞としての「者」の大本なので、②③は①から派生した用法と捉へることができます。
いろいろな品詞や文を名詞化する
いはゆる「~するもの」です。
ただし、日本語での「者」は專ら「~する人」と、人物に限定した使ひ方ですが、漢文での「者」は「~すること」「~する物」など、使へる範圍がもつと廣いです。
- 人(~する人)
- 物(~するもの)
- 事(~すること)
- 者(~する場合)
- 固有名詞や普通名詞そのもの(~といふもの・~といふこと)
- 場所(~するところ)
- 理由(~するわけ)
- 状態(~するやうなもの)
人を表す(~する人・~する者)
〔漢〕存者且偸生,死者長已矣。
〔日〕生きてゐるものは暫くかりそめに生き、死んだものは永久に止まつたままである。
「生きる(動詞)」「死ぬ(動詞)」に「者」が付いて、「生きてゐるもの」「死んだもの」といふ名詞になつてゐます。
後輩
〔漢〕[殺人]者死。
〔日〕[人を殺した]ものは死刑にする。
「殺人者死」は「人を殺したら死刑にする」とも讀めるわけで、その場合は後述の「假定條件における原因・條件を提示する」に重なつてゐます。
物・事を表す(~するもの・~すること)
〔漢〕[在天]者,[莫明於日月]。
〔日〕[天に在る]もののうち、[日月より明るいものはない]。
この文での「在天者」は、人を指してゐるとは考へ難く、星などの天體であることは明らかです。
〔漢〕范增[數目項王,舉所佩玉珪,以示之]者三。
〔日〕范増(人名)は[しばしば項王(人名)を見やり、身に付けてゐる玉珪を掲げ、そしてそれを示す]こと三たび。
「~以示之」といふ動作・コトが「者」によつて名詞化されてゐます。
〔漢〕乃鑿井,深者四十餘丈。
〔日〕そして井戸を掘り、深きこと四十尺あまり。
「深い」といふ状況・コトが「者」によつて名詞化されてゐます。
固有名詞や普通名詞そのもの(~といふもの・~といふこと)
〔漢〕有顏囘者。
〔日〕顏囘(人名)といふものが居た。
〔漢〕吾黨有直躬者。
〔日〕私の村に正直者の窮(人名)といふものがゐる。
〔漢〕眞者,精誠之至也。
〔日〕眞といふものは、純粹な心の極致である。
長い語でも使つて大丈夫
〔漢〕故儒者[將使人兩得之]者也,墨者[將使人兩失之]者也。
〔日〕故に儒者は[まさに人に兩得させようとする]ものであり、墨者は[まさに人に兩失させようとする]ものである。
「儒者」「墨者」は、もはや1つの熟語と見做して良ささうですが、敢へて解するなら「儒教を信じて實踐する人」「墨子の教へを信じて實踐する人」でせうか。
「[將使人兩得之]者也」は少し複雜なので、ひとつづつ分解して考へませう。
「將」は「まさに~しようとする」を意味する副詞。「也」は「~である」の語氣を表す助詞。いづれも付加的なものなので削除します。
- [使人兩得之]者
「使人兩得之」は兼語式使役文といつて、詳しい説明は後日します。
先輩
「兩得之」は「兩方ともそれを手に入れる」といふ意味です。「一擧兩得」といふ言葉があるとほり、「兩得する」と解してもよいでせう。
つまり「使人兩得之」は「人に兩得させる」となります。
その文に「者」を付けて「使人兩得之者」とすることで、「人に兩得させるもの」。さらに「將」「也」などを加へて「まさに人に兩得させようとするものである」といふ複雜な文章を表現できるわけです。
後半の「將使人兩失之者也」は、一字が違ふだけで構成は同じ。つまり對句です。
主語にも謂語にも賓語にも使へる。
〔漢〕堯求[能治水]者。
〔日〕堯は[治水できる]者を求めた。
「能[治水]」は「[治水]できる」。これに「者」を付けて賓語としてゐます。
「存者且偸生,死者長已矣」では「存者/死者」句が主語に、「儒者將使人兩得之者也」では「將使人兩得之者」が謂語になつてゐますが、このやうに賓語になることもできます。
先輩
判斷文の主語を明示する
これは、前述の部分と重なるところがありますが、『漢辭海』(アプリ版第三版)では獨立して説明されてゐたので、これに從ひます。
〔漢〕項籍者,下相人也。
〔日〕項籍は、下相(地名)の人である。
「Aは(主語)、Bである(謂語)」
「者」を主語に後置することで、この主語と謂語との關係を讀者に誤解なく傳へることができます。
「者」を削除してみるとどうなるか見てみませう。②は「,」なども消してみた文です。
- 項籍,下相人也。
- 項籍下相人也
後輩
「項籍下相人也」程度ならそれほど問題は無いかもしれませんが、次の文ならどうでせうか?
〔漢〕帝顓頊高陽者,黃帝之孫而昌意之子也。
〔日〕帝顓頊である高陽は、黄帝の孫であり昌意の子である。
帝顓頊・高陽・黄帝・昌意は・いづれも人名で、帝顓頊・高陽は同一人物の別名。「者」を拔いてみませう。②は「,」なども消してみた文です。
- 帝顓頊高陽,黃帝之孫而昌意之子也。
- 帝顓頊高陽黃帝之孫而昌意之子也
先輩
後輩
さういふわけで「者」は、讀んだ際の誤解を少なくする働きがあるんですね。
假定條件における原因・條件を提示する
〔漢〕上下同欲者勝。
〔日〕上位者と下位者とが欲(目的)を同じうすれば勝つ。
見出しがやたら難しいですが、要するに「AならばB・Aの場合はB」の文です。前述の「殺人者死」の文も、見方によればこの解釋が可能です。
「所」
動詞に前置して名詞句を作る
「所」も「者」と同じく名詞化の働きがあります。
〔漢〕生,亦我所欲也;義,亦我所欲也。
〔日〕生も、また私が欲するところであり、義も、また私が欲するところである。
「者」と同じく、名詞化された文が主語になつたり謂語・賓語になつたりします。
後輩
「者」と「所」との違ひについては、後述の段落「「者」と「所」との違ひ」を參照ください。別記事にすることになつたので、しばらくお待ち下さい。
「者」との違は、動詞もしくは動詞化された句の前に付くことです。「所欲」とは書いても「欲所」とは書きません。
先輩
「Aが[動詞]したB」の體言止めのやうな文
〔漢〕名河[所出]山,曰崑崙云。
〔日〕黄河が[流れ出てくるところの]山を名付けて、崑崙(山名)といふのである。
〔漢〕此韓非之[所著]書也。
〔日〕これは韓非(人名)の[著した]書である。
〔漢〕豫讓伏於[所當過]之橋下。
〔日〕豫讓(人名)は[(趙襄子といふ人物が)通り過ぎるべきところの]橋の下で待ち伏せた。
〔日(意譯)〕豫讓は[(趙襄子が)通るであらう]橋の下で待ち伏せた。
體言止めみたいな文を書くことができます。また前後に「之」を付けて語句の關係を明らかにすることがあります。
先輩
助動詞・副詞・介詞を含む文
〔漢〕[所當殺]乃我也。
〔日〕[殺すべきところ(殺すべき對象)]はまさしく私です。
〔漢〕君之[所未嘗食],唯人肉耳。
〔日〕君が[未だ食べてゐないところ(食べてゐない食材)は、ただ人肉だけだ。
助動詞や副詞など動作に直接付くものは「所~[動詞]」のやうに挾まれます。
助動詞や副詞が前に出る「當所殺」「未嘗所食」のやうな文は、この文脈では不適切です。ただし、だからと言つて絶對に無いわけではありません。
助動詞は動詞由來の品詞で、後ろの語を賓語化することができます。細しくは助動詞の記事を參照。
漢文の付加的な形 助動詞なので「當所殺」は、一往ありえないわけでは無く、おほむね以下のやうな文意を表せます。
〔漢〕當[所殺]。
〔日〕當然ながら[殺すところ]であるべきだ(當然ながら殺した人物であるべきだ)
以下、即興ですが、こんな文も書けると思ひます。
〔漢〕汝之所謝者,當其所殺。
〔日〕お前の謝るところは(謝る對象は)、當然ながらお前が殺したところ(被害者)であるべきだ。
介詞が含まれる文
本記事公開時點で介詞の記事は未着手なので、この段落はいつたん飛ばして大丈夫です。
「刃が人を傷つける」を漢文にすると次の通り。
- 刃傷人(刃が人を傷つける)
「刃」を主語とした普通の文です。次に「賊が刃で人を傷つける」を漢文にするとどうでせうか。
- 賊以刃傷人(賊が刃で人を傷つける)
介詞「以」を使つて「刃」を傷つけるための手段を表しました。介詞もまた動詞的な使ひ方がされるので「所」で名詞化できます。
漢文 | 解釋 |
①賊所以傷人刃。 | 賊の人を傷つけるための刃である。 |
賊の人を傷つけるための手段は刃である。 | |
②刃賊所以傷人。 | 刃は賊が人を傷つけるためのものである。 |
刃は賊が人を傷つける手段である。 |
この場合も助動詞などと同じく「所 + [介詞]」の形が一般的です。
次に具體的な文例を擧げます。
〔漢〕樂者,音之所由生也。
〔日〕樂は、音の根元的に生ずるところである。(音の生ずる根元)
「ものの生ずる場所・依據するところ」を表す介詞「由」の文章。書き換へると「樂生音」「音由樂生」になるでせう。
〔漢〕梁乃召故所知豪吏,諭以所爲起大事。
〔日〕梁(人名)はそこで昔から知つてゐた豪吏(有力な役人)を招いて、告げるに大事を起こすためのところを以てした。
〔日(意譯)〕梁はそこで昔なじみの豪吏を招いて、大事を起こす理由を告げた。
「目的・理由」を表す介詞「爲」の文章。介詞を二重に使つた入れ子の文なので簡單にしてみます。
- 起大事。
- 爲起大事。
- 所爲起大事。
- 諭以所爲起大事。
①「起大事」は「大事を起こす」といふ普通の文。
②これに介詞「爲」を付けて「爲起大事」とすれば「大事を起こすためである」と、大事を起こすことを目的化できます。
③更にこれを名詞化するために「所」を付けて「大事を起こすためのところ(起こす理由・目的)」。「大事を起こすゆゑん」といふ文章になりました。
④その名詞化した文を更に介詞構文の賓語に組み込んだのが①の「諭以所爲起大事」になるわけです。
先輩
〔漢〕諸所與交通,無非豪桀大猾。
〔日〕もろもろの共に通じ合つてゐたところは、豪桀大猾な者でないわけではない。
〔日(意譯)〕通じ合つてゐた全ての相手は、豪桀大猾な者である。
「~と・~とともに」を表す介詞「與」の文章です。單純化して書き換へると「與豪桀大猾交通」になるでせう。
〔漢〕生有所乎萌,死有所乎歸。
〔日〕生には生ずるところがあり、死には歸するところがある。
「~に・~において」を表す介詞「乎」の文章で、この種類の介詞には「於・于」などもあります。この介詞の例は『漢文法要説』に「極めて稀な例」と説明されてゐて、ほとんど用ゐられないやうです。
この例文の基本形は
- 生萌(天),死歸(地)。
- 生は(天に)發生し、死は(地に)歸着する。
それに介詞を書き加へます。なほ、「乎」より一般的な「於」に變更してゐます。
- 生萌於(天),死歸於(地)。
- 生は(天において)發生し、死は(地において)歸着する。
「所萌・所歸」では普通に動詞を名詞化しただけですが、「所於萌・所於歸」とすると「~においてするところ」といふ風に、それに關係する場所を強調した言ひ方になるのだと思ひます。
ちなみに「所萌於・所歸於」とは書かないやうで、おそらく介詞句を名詞化するには[所] + [介詞] + [動詞]とする決まりがあるのかもしれません。
「所」を複數重ねて入れ子にする文
〔漢〕悉復收秦所使蒙恬所奪匈奴地者。
〔日〕秦が使はした蒙恬が奪つた匈奴の土地をことごとく再び手に入れた。
「所」が連續で書かれてゐます。以下問題の部分だけ拔粹しました。
- 秦[所使]蒙恬[所奪]匈奴地
- 秦が[使はした]蒙恬が[奪つた]匈奴の土地
この文を2つの部分に分け、さらに「所」を使はない文にしてみます。
- 秦使蒙恬(秦が蒙恬を派遣する)
- 蒙恬奪匈奴地(蒙恬が匈奴の土地を奪ふ)
「秦所使蒙恬所奪匈奴地」は、①と②を合體させて、更に名詞化するよくばりセットみたいな文といふわけです。
先輩
〔漢〕今日父所令我所言故事、昨日我所讀書所記文意者,同也。
〔日〕今日父が私に命じて言はせた故事と昨日私が讀んだ本に書いてあつた文章は、同じだつた。
即興ですが、このやうな數珠つなぎの文を書くこともできると思ひます。
普通名詞として「所」を使ふ文、およびその複合
〔漢〕太常遣錯受尚書伏生所。
〔日〕太常(官名)は錯(人名)を遣はして、彼に尚書を伏生(人名)の所で受けさせた。
「所」の原義は「場所」であり、それをそのまま使つても大丈夫です。
〔漢〕莫知姓、王、年代、所都之處。
〔日〕誰も姓・王・年代・國都を置いたところの場所を知らない。
助詞としての「ところ」と普通名詞としての「ところ」を併記する場合、普通名詞の「ところ」は、似た意味を持つ別の漢字「處(処)」になることが多い氣がします。おそらく兩者の混同を避けるためだと思ひます。
「者」と「所」
「者」と「所」が同時に使はれる例
〔漢〕上曰:「若[所追]者,誰?」。何曰:「韓信也」
〔日〕天子「お前が[追つてゐたもの]は、誰だ?」。何(人名)曰:「韓信です」。
「若所追者,誰?」で「者・所」が一文に同居してゐます。「若」は二人稱代詞で「何」を指してゐるので、「何所追者,誰?」とも書けます。
人稱代詞(人稱代名詞)についてこの「者」は、遙か上の方であつた「いろいろな品詞や文を名詞化する」や「判斷文の主語を明示する」の用法です。
「若所追,誰?」と書いても良いですが、主題主語であることを明確にするために「者」が書かれたのでせう。
〔漢〕君者[所事]也,非[事人]者也。
〔日〕君主といふものは(人民の)[仕へるところ]であつて、[人に仕へる]ものではない。
「君者所事也」は、主語と謂語とで分離してゐるので比較的解りやすいでせう。情報を足すと「君者人所事也」となります。
以下は後述あるいは別記事で書かれる「「者」と「所」との違ひ」を既に讀んでゐることを前提にしてゐます。
この文脈では、「人」が仕へる主體であり、「君」が仕へられる客體になつてゐます。だから「君者(人)所事也」と書かれるのであり、「君者事(人)者也」と書いてはならないのです。じつさい、その直後に「非事人者也」と叮嚀に否定してゐますね。
主體とか客體とか、このあたりの説明は、後日公開する別記事「「者」と「所」との違ひ(假)」を見てもらふと解りやすいと思ひます。
「君者人事者也」と書くと「君主なるものである。(それなのに)人に仕へるものである」と讀まれたり、あるいは「君主といふものは、人は仕へるものである。」と、2つの主語主體と解されて意味が通らなくなります。
「者」と「所」の違ひ
本當はこの記事に收めるつもりだつたんですが、かなり内容が長くなつてしまつたので、別記事でまとめます。
その他の用法
「ばかり」と「許」
〔漢〕長一寸所。
〔日〕長さは一寸ばかり。
〔漢〕吐出三升許蟲。
〔日〕三升ほどの蟲を吐き出した。
〔漢〕前未到匈奴陣二里所止。
〔日〕前進して匈奴の陣に到達せずして二里ほどのところで止まつた。
「~ばかり」「~ほど」「くらゐのところ」といふ意味を表します。
「所」の原義は「場所」で、この「ばかり」の用法はそこから派生したものでせう。「サイズはどのくらゐ?」「この定規のこの目盛りのところだよ」と言ふイメージです。
「許」は「所」と發音が似てゐたために代用されることが多いです。
まとめ
後輩
先輩
そんなわけで助詞について、主に構造助詞をメインに書きました。語氣助詞は後日書く豫定ですので、しばらくお待ち下さい。
- 構造助詞:その文が文法的にどういふ組み立てになつてゐるかを示す。
- 語氣助詞:疑問や詠嘆など、書き手の感情を表す。
特に「者・所」は、西田太一郎著『漢文法要説』がかなり詳しく、用例が豐富です。この記事もその用例の孫引きをしてゐるところが多いので、もつと細しく見たい方は讀んでみることをオススメします。
註と參照文獻
- 西田太一郎(2014年4月1日). 『新訂 漢文法要説(再刊第9刷)』. 朋友書店, 160p.
- 加地伸行 等(2010年12月13日). 『漢文法基礎』. 講談社, 學術文庫, 608p.
- 佐藤進 濱口富士雄(2015年). 『漢辭海』アプリ版. 三省堂